デビュー当時
ポートランド・トレイルブレイザーズから1983年14番目に指名されNBAに入団(なぜドレクスラー程の選手は14番目に指名されたのかは未だに議論がなされる事柄である)。1年目はジョン・パクソン、カルビン・ナット、ラファイエット・レバーが多く出場していたため、出場時間平均は17分台にとどまり、彼の高いパフォーマンスを披露する機会に恵まれなかった。平均スコアも7.7点に留まり、信じがたい事だがNBAルーキーチームの一員にも選出されなかった。しかし若返りを図ったチームの方針もあり出場機会が十分に与えられた2年目の1984-85年シーズンには次第に存在感を示し始め、シーズン中盤になるとチームは彼を中心とするゲームメイクをするようになる。ポストシーズン進出の原動力となり、平均スコアは前年の倍以上(17.2点)に跳ね上がり彼の名前を世間に知らしめることとなる。デビュー2年目の1984年から10年間ドレクスラーはスコアランキング上位の常連となる。
最盛期
1989-90年、ブレイザーズはベテランパワーフォワード バック・ウイリアムスをトレードで獲得、ドレクスラーにとってウイリアムスの獲得は喜ばしいものであった。シーズン前ドレクスラーは「今年の我々は戦うだけの十分な力がある。必ずそこ(FINAL)へ行けるであろう」と断言している。ドレクスラーは通算10.000得点をマーク、またオールNBA 3rdチームにも選出される。ドレクスラーを中心としてチームは危なげなくプレイオフ進出、そして彼の予言通りNBA FINALまで駆け上がるのである。 決勝の相手は2連覇を狙う「バッドボーイズ」、ジョー・デュマース、アイザイア・トーマス、デニス・ロッドマンらが在籍するデトロイト・ピストンズ。ドレクスラーは本拠地で行われたGame2で33得点、決勝フリースローを決めるなど活躍、しかしながら本拠地でのこの試合が唯一の勝ち星で、念願のチャンピオンリングには手が届かなかった。ピストンズは2連覇を達成。 翌年の1990-91年シーズンからドレクスラーとトリプルダブルは、ほぼ同義語になっていた。この年4度のトリプルダブルを記録する。MVP投票でも6番目の投票を集め、プレイヤーオブザウイークに3度選出される、また5年連続オールスターに選出。この年もプレイオフに進み、1回戦のシアトル戦でプレイオフ自己最多の39得点、2回戦のユタジャズ戦でも自身プレイオフ3度目のトリプルダブルを達成しウエスタン・カンフェランス・ファイナルに勝ち進むもロサンゼルス・レイカーズにファイナル進出を阻まれる。 1991-92年この年ドレクスラーは初めてオールNBA 1stチームに選出される。MVP得票においても、ジョーダンに次ぐ2位。またバルセロナオリンピックでジョーダン、マジックとともに今だ語り継がれるドリームチームに参加、金メダルを獲得している。背番号は10番。 オールスターで初めてスターティングメンバーとしてプレイ、28分間で、22得点、9リバウンド、6アシスト、2ブロックショットを記録。レギュラーシーズン後半彼は怪我によって数戦戦列を離れるが、プレイオフに戦列復帰。 レイカーズとの第1回戦オーバータイムでのNBA記録、13得点を記録。ゲーム全体では42得点を記録した。これはブレイザーズのポストシーズン記録となる。チームはFINALまで勝ち進み、ジョーダン率いるシカゴ・ブルズと対戦。しかし惜しくも破れこの年も優勝を逃した。ブルズは2連覇を達成。 この3年間のドレクスラーは彼のキャリアの中で最も高いパフォーマンスを見せた。
ダンクコンテスト
「クライド・ザ・グライド」華麗なダンクでNBAファンを唸らせ、ルーキーの頃からスラムダンクコンテスト出場を果し、NBA屈指のダンカーの立場を不動のものとした。1984, 1985, 1987, 1988, 1989 の5回の出場はNBA最多。滞空時間が長く、美しいフォームのダンクだが当時のライバル、マイケル・ジョーダン、ケニー・ウォーカー、ドミニク・ウィルキンズの豪快なダンクを比べると多少インパクトが少なかったのだろうか、1987年はジョーダンと激戦のうえ敗退、1989年は地元でもあるヒューストンで観客の声援を受けながら決勝に進んだが、ケニー・ウォーカーのパワフルなダンクに敗北を喫し、念願であったスラムダンクチャンピオンの称号を手にすることはなかった。しかしながら彼が歴代NBAプレイヤーの中で最も華麗なダンカーの一人である事は誰もが認めるところである。 |